読めたらスゴイ!越後国の難読地名が苗字となった戦国武将・五十公野信宗のエピソード (2/5ページ)
古くは鎌倉幕府の御家人・佐々木盛綱(ささき もりつな)を祖とする近江源氏の末裔で、室町時代ごろに分家して当地へ土着、五十公野の名字を称します。
信宗はその家督を継承したのですが、元は越中湯山城(現:富山県氷見市)の城代・長沢筑前守光国(ながさわ ちくぜんのかみみつくに)に仕える小姓で、名は長沢勘五郎(かんごろう)と言いました。
生年は不詳、主君と同じ名字であるため、恐らくは親族から取り立てられた美少年だったのでしょう。
そんな勘五郎は永禄十二1569年、上杉謙信(うえすぎ けんしん)の越中侵攻に際して主君と共に降伏し、謙信の傍に召し出されて長沢道如斎義風(どうじょさい ぎふう)と改名します。
いかにも出家したような名前ですが、後に上杉家の重臣である五十公野治長(はるなが)の妹婿となっているため、恐らくは雅号でしょう。
かくして上杉家に仕官した勘五郎改め道如斎は、才覚を認められて越後三条(現:新潟県三条市)の地で町奉行を拝命。その経営に手腕を発揮しました。しかし、彼もまた戦国乱世を生きる武士。政治分野で活躍したとは言え、決して文弱の徒ではありませんでした。
御館の乱で活躍するも、恩賞の少なさに謀叛を起こす道如斎の武勇が発揮されたのは、天正六1578年に没した謙信の跡目争いである御館(みたて)の乱。