読めたらスゴイ!越後国の難読地名が苗字となった戦国武将・五十公野信宗のエピソード (4/5ページ)
しかし天正九1581年、論功行賞の沙汰を下された重家は、恩賞が「新発田の家督相続を認める」だけというほぼタダ働きの結果に愕然。亡き兄・長敦や信宗の武勲など、無きに等しい扱いです。
「……ふざけるな!いったい誰のお陰で上杉の家督を継げたと思っているのだ!」
主君への奉公は御恩あればこそ……恩賞に不満があれば謀叛を起こすのが乱世の習い。さっそく景勝に叛旗を翻した重家は、信宗や降伏した秀綱など一族をはじめ、景勝に不満を持つ国人衆を集めて新潟津(現:新潟県新潟市)を奪取。
当地に新潟城を築いたとされ(遺構は未発見)、まだ不安定な景勝政権に対して、北から圧力を加え続けるのでした。
エピローグその後、かつて撃退した蘆名・伊達両氏の援軍も得たことで勢いを増し、6年間にわたって上杉景勝を脅かし続け、後世「新発田重家の乱」と呼ばれることになった謀叛でしたが、やがて蘆名氏と伊達氏が争うようになると、共に越後国から手を引いてしまいます。
これによって劣勢に転じた重家ですが、和睦の勧告も拒絶して徹底抗戦。家臣の討死や寝返りが相次ぎ、ついに信宗が守る五十公野城との連絡も寸断され、完全に孤立してしまいました。
「もはやこれまで……かくなる上は、一兵でも多く冥途の道連れにしてくりょうぞ!」