読めたらスゴイ!越後国の難読地名が苗字となった戦国武将・五十公野信宗のエピソード (3/5ページ)

Japaaan

実子のいなかった謙信の養子である上杉景虎(かげとら)と上杉景勝(かげかつ)の争いでは、義兄・治長に従って景勝に加勢。

景虎に味方した同族の加地秀綱(かじ ひでつな)が守る加地城(現:新潟県新発田市)を攻略して秀綱を捕らえ、また三条城(現:新潟県三条市)の神余隼人佑親綱(かなまり はやとのすけちかつな)を討ち取る武勲を上げました。

他にも、越後国の混乱に乗じて東から侵攻してきた蘆名盛氏(あしな もりうじ)や伊達輝宗(だて てるむね)の軍勢を撃退するなど、景勝の勝利に大きく貢献します。

御館の乱で大武勲(イメージ)。

「これほどの働きなれば、さぞや重き恩賞に与れようぞ!」

果たして上杉家の跡目はめでたく景勝が継ぐこととなり、論功行賞の沙汰を待っていた天正八1580年、治長の長兄である新発田長敦(しばた ながあつ)が急死すると、治長は五十公野の家督を道如齋に譲って生家に戻り、新発田重家(しげいえ)と称します。

これによって道如齋は五十公野信宗と改名、五十公野城(現:新潟県新発田市)の主となったのでした。

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