ひどすぎる!戦国時代の名軍師・山本勘助が養父に勘当されてしまった理由とは? (1/4ページ)
戦国時代「甲斐の虎」と恐れられた武田信玄(たけだ しんげん)公に仕え、数々の勝利に貢献した名軍師・山本勘助(やまもと かんすけ。晴幸)。
歌川国芳「名高百勇傳 武田信玄」より。目が天地を睨んでいるのは、不動明王を模しているため。
その卓越した軍才をもって若い頃から活躍したイメージを持たれがちですが、どちらかと言えば大器晩成タイプだったようで、その前半生は謎に包まれています。
※若い頃は武者修行の旅に出て全国各地を回り、様々な武勇伝を残したとも言われますが、その多くは裏づけに乏しく、恐らく勘助が有名になってから後づけされたものと考えられます。
記録に乏しいということは、特筆するような活躍も見られず、よほどの富裕層でなければ苦労を強いられたことでしょう。
今回はそんな勘助が若き日に味わった苦労の一つとして、理不尽きわまるエピソードを紹介したいと思います。
家老・大林貞次の養子となるも……?勘助(幼名:源助)は明応2年(1493年。諸説あり)、駿河国富士郡山本村(現:静岡県富士宮市山本)の土豪・山本図書貞幸(ずしょ さだゆき)の四男として生まれました。