主君を幾度も変え一兵卒から大出世を遂げた戦国武将・藤堂高虎に学ぶ能力開発【後編】 (2/3ページ)

Japaaan

宇和島城からの眺め

さらに時は流れ、豊臣秀吉は朝鮮に大勢の日本兵を送り出したままこの世を去ります。
残された人たちの頭を悩ませたのは、いかにして朝鮮の日本軍を無事に引き揚げさせるかということでした。

「敵水軍の妨害を排除しつつ、安全を確保しつつ速やかに兵を運ばねばならん。そんなことができるのは……」

秀吉亡き後、第一人者となった徳川家康が白羽の矢を立てたのが、高虎でした。
高虎に宇和島を与えた秀吉と同様、家康も高虎の水軍指揮能力を高く評価していたと考えられます。また、任務遂行に際しては築城で培った大人数を効率的に動かすノウハウも役立ったことは想像に難くありません。

緩急を使い分ける交渉力

このように実務家として活躍した高虎でしたが、江戸幕府の大名となった晩年に挙げた大きな功績の一つが

「徳川秀忠の娘を天皇の后にするための交渉をまとめたこと」

でした。

家康、そして秀忠は江戸幕府(徳川家)の権威を高め、朝廷に対しても影響力を行使するために天皇家との婚姻を望みましたが、朝廷側は当然ながら警戒します。さらには当の天皇に隠し子が発覚するなどして事態は泥沼化しますが、幕府側の責任者となった高虎が

「この婚姻が成らぬ場合は、私はこの場で腹を切って死ぬ」

と公家たちを恫喝し、強引に押し切ったとされています。全身疵だらけの巨漢に睨まれたら、私なら泣く。絶対泣く。

とはいえ、高虎は力押ししかしなかったわけでもないようです。

高虎は宇和島を与えられ独立した大名になった頃から、藤原氏の末裔を自称するようになっていました。

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