秀吉だけでは天下取りはできなかった! 豊臣秀吉を支えた名補佐役・北政所ねねの手腕【後編】 (3/4ページ)
豊臣服従後も天下取りの野心を抱いていた伊達政宗。(写真:ウイキペディア)
自ら豊臣滅亡の危機に動くも…1598年に秀吉が没した後、ねねは淀殿と協力して秀頼を頂点とする豊臣政権の後見にあたります。しかしその翌年、大阪城を退去し、現在の高台寺を中心とした高台院屋敷に移りました。
高台院屋敷跡に建つ高台寺。秀吉とねねの霊を弔う霊屋(おたまや)。(写真:ウイキペディア)
ねねのこの動きから、よく言われるのが淀殿の対立問題です。秀頼の母として専制を振るう淀殿と距離をおくようになり、その結果として、衰退をたどる豊臣家を見殺しにしたという説です。
しかし、これは事実とは考えられません。1600年の関ケ原の戦いでは、大津城籠城戦の講和交渉や戦後処理に関与するなど、西軍側と見られる行動をしています。
ただ、ねねのこうした動きは、徳川家康の警戒心を刺激したようです。