秀吉だけでは天下取りはできなかった! 豊臣秀吉を支えた名補佐役・北政所ねねの手腕【後編】 (4/4ページ)

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1614年の大坂冬の陣が迫ると、ねねは大坂に下向し淀殿の説得を試みようとしたとされます。

この時、家康は、ねねの甥にあたる木下利房に命じ、高台院屋敷近くに布陣させ、ねねの動きを阻止しました。

大坂の陣で、なんとしても豊臣家滅亡を目論んでいた家康にとって、ねねが動くことによる影響力は脅威であったのです。

 ねねの大坂城退去後に、豊臣政権で専制を敷いた淀殿。(写真:ウイキペディア)

大坂冬の陣から約半年後の夏の陣で豊臣家は滅びました。この時、ねねは高台院屋敷の高台に建つ望楼から、紅蓮の炎に包まれた大坂城を見届けたと伝わっています。その胸中に去来するものは、どのようなことであったのでしょうか。

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