まさに蘭学の化け物!江戸時代、前野良沢が『解体新書』に名前を載せなかった理由とは (2/6ページ)

Japaaan

それよりは放っておくと廃れてしまいそうなものにこそ目を向けて、後世に伝えることを心がけよ」

要領よく時流に乗って人気を取り、立身出世を目指す賢(さか)しらな生き方よりも、誰も顧みないものの真価を見極められる人になれ……いかにも生きにくそうな偏屈さですが、そういう不器用な人間はいつの時代もいるものです。

中津藩主・奥平昌鹿。彼の理解が良沢の活動を支えた。Wikipediaより。

さて、元服した良沢は熹(よみす。字は子悦)と改名し、寛延元年(1748年)に大叔母(全沢の妻)の実家である前野家に養子入りし、中津藩(現:大分県中津市)の藩医となりました。

「長崎に行って、オランダの先進医術を学びとうございます!」

明和6年(1769)に藩主の参勤交代で江戸から中津へ下向した良沢は、長崎に留学して西洋の医術書『ターヘル・アナトミア』を持ち帰り、医学者仲間の杉田玄白(すぎた げんぱく)、中川淳庵(なかがわ じゅんあん)、桂川甫周(かつらがわ ほしゅう)らと翻訳を始めるのですが……。

オランダ語をオランダ語で…暗中模索の3年半

「皆、目、判らーんッ!」

すべてオランダ語で書かれた『ターヘル・アナトミア』の翻訳は困難を極めました。

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