「世の中は三日見ぬ間に桜かな」ーー品川区来福寺の雪中庵蓼太の句碑 (2/3ページ)

心に残る家族葬



■雪中庵蓼太、江戸の俳壇で一躍名を挙げる

延亨4(1747)年に雪中庵三世を継いだ後、蓼太は俳諧論集『雪おろし』(1751年)を編み、当時の俳界で大きな勢力を誇っていた流派・江戸座を批判した。その中で、『江戸二十歌仙』(1745年)に掲載されていた「駄作」を取り上げて自ら改作し、自派の正当性、そして芭蕉への回帰を主張したのだ。こうした一連のことから、蓼太は江戸俳壇で一躍、名を挙げることとなった。その後蓼太は、芭蕉の七十回忌に当たる宝暦13(1763)年、かつての深川・要津寺(現・東京都墨田区)に芭蕉を供養し顕彰するため、俤(おもかげ)塚を築いた。そのときの諸国からの参会者は500人余り、芭蕉追悼のための句が3万6000句以上も寄せられるほど、盛大なものだった。そして明和8(1771)年には、要津寺内に芭蕉庵を再興させたりするなど、芭蕉の死後から衰え、卑俗化や混迷を極めていた俳風を改め、後に「中興俳諧」と呼ばれる、芭蕉の詩心への回帰・継承運動に尽力したのである。

その後、蕪村の文人画や句が多くの人に浸透し、愛好されるに至ってからは、「大衆的」「わかりやすい」句を得意とした蓼太自身の存在感は薄れてしまったが、50年以上の俳諧人生において、蓼太は200冊以上の句集を編み、3000人以上の門人を抱え、多くの貴人たちとの交流もさかんだったと言われている。

■70歳で亡くなった雪中庵蓼太と来福寺に残る句碑


70歳で蓼太が亡くなって程なく、桜の名所で知られた品川に所在する来福寺(らいふくじ、現・品川区東大井)に、弟子たちによって「世の中は三日見ぬ間に桜かな」の碑が立てられた。平安時代中期の正暦元(990)年創建の来福寺だが、幸いなことに今もなお碑は残り、句そのままに、桜の時期になると毎年、見事な桜が咲き誇っている。

桜の命は実に短い。春風に吹かれ、あっけなく散ってしまう。しかしまた、3月に入ると再び、美しく開花する。来年も蓼太の句を我々は必ず、どこかで目にし、耳にすることだろう。
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