2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」注目の一人!二階堂行政が魅せた影の実力者ぶり (4/6ページ)
ちなみに、二階堂とは永福寺が二階建てだった(※残念ながら現存せず)ことに由来しますが、言われてみれば寺院のお堂は一階建ての平屋が多く(御本尊の上下に立ち入ることを遠慮したのでしょうか)、二階建ては珍しいですね。
行政が永福寺の近くに邸宅を構えた理由は不明ですが、単にそこに土地を与えられたのか、もしかしたら奥州合戦で大切な誰かを喪い、その菩提を弔いたいと言った動機があったのかも知れません。
さて、建久元年(1190年)9月に頼朝公が上洛された際は路銀(旅費)や宿泊、朝廷へ貢納する金子(きんす)その他もろもろを取り仕切る諸事奉行人の筆頭として活躍。
荒くれ者揃いの坂東武者たちに「くれぐれも粗相のないよう」色々と気を配り、京都の公家たちにもあれこれと根回しに走り回った結果、これと言ったトラブルも(あまり)起こさずに任務を完遂できました。
鎌倉幕府のブレーンとしてこうして着実に信頼と実績を積み重ねた行政は、建久2年(1191年)に政所(まんどころりょう。公文所から改称)の令(りょう。次官)となり、建久4年(1193年)には政所別当となって、広元と肩を並べる(※別当が複数制に変更)までになります。
同年には朝廷より民部大夫(みんぶのたいふ)に叙せられ、鎌倉と京都の橋渡し役としてその存在感を高め、広元が任務で不在の折には政務を代行・統括するほど篤い信頼が寄せられました。
そして正治元年(1199年)に頼朝公が亡くなられ、その嫡子・源頼家(よりいえ)が第2代将軍職を継承すると、幕府は将軍親政を停止(※)して「鎌倉殿の13人」による合議制を採用します。