新選組4人相手に死闘を演じ「ぜんざい屋事件」に散った志士・大利鼎吉が詠んだ辞世の心【前編】 (2/4ページ)

Japaaan

武市半平太の自画像。Wikipediaより。

「一刻も早く天子様(天皇陛下、朝廷)に政権をお返しし、不埒な外国勢力を一掃せねば、日本国に未来はない。我ら勤王党はその先駆けとして奉公いたそう!」

しかし保守派(尊王攘夷に慎重)であった土佐藩参政(家老)の吉田東洋(よしだ とうよう)を暗殺するなど過激な運動を展開したため弾圧され、鼎吉は文久3年(1863年)に土佐から脱藩。

大君(おおきみ)の 為と思えば やみ得ずも
命にかへて 魁(さきがけ)やせん

【意訳】尊王攘夷を実現するため万難を排し、この命に代えても全国志士たちの先駆けを務めよう!

そんな決意を詠んだ鼎吉は、京都へ潜入して長州藩の過激派志士たちと合流します。

池田屋事件を生き延び、禁門の変に参戦

「君側の奸(くんそくのかん。主君を惑わす奸臣、ここでは徳川幕府)より天子様をお救いするべく、まずは京都洛中に火を放つ!」

京都三条小橋の池田屋(いけだや)に集まって謀議を重ねていた元治元年(1864年)7月8日、京都洛中の治安維持に当たっていた新選組(しんせんぐみ)の襲撃を受けました。世に言う池田屋事件です。

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