「三矢の教え」はフィクションだった?戦国大名・毛利元就が息子たちに遺した教訓とは (2/7ページ)

Japaaan

三男)という3人の息子がいましたが、長男の隆元は元就(元亀2・1571年没)が亡くなる8年前の永禄6年(1563年)に先立っているのです。

また、次男の元春は当時遠征中だったので、実際に元就の最期を看取ったのは、三男の隆景と孫(隆元の子)の毛利輝元(てるもと)だけでした。

三兄弟(隆元は死亡、元春は不在)と輝元。Wikipediaより。

となれば、必然的に「三矢の教え」エピソードは史実に沿ってないことになりますが、その初出には諸説あり、江戸時代の逸話集『常山紀談(じょうざんきだん)』や『前橋旧蔵聞書(まえばしきゅうぞうききがき)』などが出典と考えられています。

ただ、これらの文献だと、元就は(史実に沿って隆元と元春を除く)大勢の息子や孫たちを集めて「一本々々の矢はたやすく折れるが、束にすれば折れない」という形で伝えており、代々語り継がれていく中で、3兄弟というシンプルで安定感のある数字とストーリーに洗練されていったのでしょう。

なので、矢を束ねた元就の遺言は「もしかしたら言ったのかも知れないけど、それを裏づける史料が確認できない」というのが正確なところです。

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