実は奴隷だった弥生人!?農業がもたらした「史上最大の詐欺」とは?
弥生時代の稲作は「進歩」ではない?
もともと人類は250万年もの間、狩猟・採集によって食べ物を獲得してきました。
米や小麦などを栽培して収穫する「農業」が行われるようになったのは、今から1万年ほど前のことです。
日本で稲作が始まったのも、こうした世界的な潮流のひとつです。縄文時代の終わり頃から弥生時代の初期にかけて、私たちのご先祖様は米を作るようになりました。
ところで、稲作が始まったことで、弥生人は縄文人よりも「進歩」したと考えられがちです。
確かに、稲作のおかげで弥生人は食糧を蓄えておくことが可能になりました。また、狩猟や採集のためにあくせく走り回らなくてもよくなり、家を作って定住するようになりました。
これらの事実を見ると、弥生人は縄文人よりも豊かな生活を営んでいたように思われます。しかし実際はどうだったのでしょうか?
以下では、そうした暮らしの変化のデメリットを挙げてみます。
まず、食糧を蓄えておくことは、貧富の差の発生や奪い合いの原因になったと考えられています。
実際、弥生時代は戦乱が頻繁に起きるようになったとされています。この時代の遺跡からは戦死者の遺骨や武器がよく発掘されます。
おそらく弥生人は、自分たちの土地に侵入してくる外敵に対してとても神経質になっていたことでしょう。何せ、敵に全てを明け渡してしまえばまた新しい土地で一から米づくりを始めなければなりません。さもなければ飢え死にです。
人々が家を作って定住したことについても、農作業をするからには田畑を常に見守らないといけないので「仕方なく」定住したとも考えられます。
また、米が主食になったことで栄養素も偏りがちになりました。米は鉄分・カルシウム・繊維質などが不足しています。
では、狩猟・採集で食糧を得ていた縄文人はどうだったでしょうか。
彼らは米のような一つの作物に限らず、複数の種類の食べ物に頼っていました。ですから、一つの食べ物が手に入らなくなっても他のもので補えます。栄養素についても同じことが言えます。
また、彼らは一カ所にとどまらず絶えず移動していたと考えられます。ですから弥生時代ほどには集落同士の戦争も起こりにくかったことでしょう。
このように考えると、弥生人による稲作が「進歩」だったとは言い切れなくなってきますね。
”奴隷”だったかも知れない?弥生人実はここまで述べたことは、歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリによるベストセラー『サピエンス全史』に書かれていたことを下敷きにしています。
同書では、弥生時代の稲作に限らず、世界的に農業が行われるようになった約一万年前の状況を指して、なんと「人類は植物によって奴隷化された」と述べています。
例えば、小麦について同書にはこう書かれています。すなわち、一万年前はただの野生の草にすぎなかった小麦は、自分に有利な形でホモ・サピエンスを操ることで世界中に広がったのだ、と。
もしかすると、弥生人の稲作についても同じようなことが言えるかも知れません。
古代からずっと米を作ってきたとされる日本人。実はそれは稲という植物によって操られ、繁殖の手伝いをさせられてきたということなのかも知れません。
『サピエンス全史』では、人類が「農業」という技術を手に入れたことをひとつの革命だとした上で「農業革命は、史上最大の詐欺だった」とまで述べています。
農業には数多くのデメリットがあるにもかかわらず、人類はそれに気付かず、目がくらんでしまったということです。
人類はなぜ詐欺被害に遭ってしまったのか人類がこの「詐欺」に引っかかってしまった理由は、いくつかあります。農業技術は新しい工夫と試行錯誤の積み重ねで進化していきましたが、この進化のスピードはとてもゆっくりでした。
よって、農業を営んでいた人々の生活も長い時間をかけて安定していきました。ところがそのため、世代交代が進むと誰も昔のことを思い出せなくなってしまったのです。
何せ「記録」がありません。現代なら何かと記録が残るので比較材料がありますが、弥生時代は写真はおろか文章もない無文字社会でした。
つまり、昔と比べて今は本当に便利になったのか? 豊かになったのか? 楽になったのか? と考えても判断材料がなく答えが分からないのです。
しかも、そういう疑問が頭をよぎったとしても手遅れでした。稲作と定住によって集落ができると今度は人口が増えます。人口が増えれば、今さら移動しながらの狩猟・採集による食糧調達は不可能です。その場所にとどまり、土地を拡げて多くの作物を作り続けなければなりません。
これは悪循環です。より多くの作物を栽培すれば、同時に悪天候、病害虫、外敵の収奪によるリスクも拡大することになります。
『サピエンス全史』によると、人類はこのような経緯で「史上最大の詐欺」に引っかかったというのです。
もちろんこれは一つの仮説であり、そういう解釈もあるということです。
本当のところはどうなのでしょう。稲をはじめとする植物の側は、人間のことをどう見ているのでしょうね。自分たちを育ててくれる「御主人様」と見ているのか、それとも自分たちの繁殖のために奉仕する「奴隷」と見ているのか……。
想像を巡らせてみるのも面白そうです。
参考資料
山﨑圭一『一度読んだら絶対に忘れない日本史の教科書』2019年、SBクリエイティブ株式会社
ユヴァル・ノア・ハラリ著、柴田裕之訳『サピエンス全史(上)-文明の構造と人類の幸福』(2016年・河出書房新社)
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