千里眼の能力の持ち主とされていた御船千鶴子の数奇な運命とは (2/6ページ)

心に残る家族葬

猛雄は、千鶴子の信仰心の篤さや秀でた集中力に目をつけ、「千里眼ができる」と暗示をかける催眠術を千鶴子が17歳の頃から施していた。千鶴子が実家に戻った当時はちょうど、日露戦争(1904〜1905)下で、商船・常陸丸(ひたちまる)の遭難が世間を騒がせていた。そこで清原は千鶴子に、熊本を本拠とする第6師団の兵士が常陸丸に乗船しているか否かを訪ねてみた。千鶴子は「いったん長崎を出発したが、途中で故障のため長崎に引き返したため、乗船していない」と答えた。その3日後、その言葉が的中していたことがわかった。それが地元で大きな話題となり、猛雄の「診療所」には、千鶴子による、「患者」の病を見定める「人体透視」、そして猛雄の催眠術目当てで通う人々が相次いだという。その中には、具体的な時期は不明だが、福岡県大牟田市で三池炭鉱を経営していた三井財閥本社からの人物もおり、かねて不調に終わっていた新坑開発のため、石炭の鉱脈を千鶴子に透視させた。すると千鶴子は「もう少し南に真っ黒い塊が見える」と答えた。その言葉に従い探査した結果、大規模な石炭層が発見された。しかもそれは、昭和26(1951)年まで稼働し、最盛期の昭和2(1927)〜20(1945)年の19年間で1643万トン以上の産出量を誇った万田(まんだ)坑だったという話も伝わっている。

■全国区になった御船千鶴子

千鶴子の評判は熊本県内にとどまらず、明治42(1909)年8月14日付の『東京朝日新聞』に、「不思議なる透見(とうけん)法 発見者は熊本の女」という見出しで大々的に取り上げられることとなった。しかもそれにとどまらず、催眠術や千里眼の研究を重ねていた東京帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)の福来友吉(ふくらいともきち、1869〜1952)や、精神医学の研究者であった京都帝国大学医科大学(現・京都大学医学部)の今村新吉(1874〜1946)らの関心を惹き、明治43(1910)年9月には、京都・東京・大阪で大々的な「透視実験」が行われるに至った。

彼らが試みた実験は、千鶴子の透視能力を見極めるためのもので、例えば、厳重に封印され、容易に開閉できない錫製の茶壺の中に入れてある名刺の名前や、任意に選んだ中国の漢詩の一句などを透視させたりした。

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