後北条氏を滅亡させた「最後の当主」北条氏直「秀吉に降伏の舞台裏」! (2/4ページ)

日刊大衆

 その後、氏真に実子が生まれ、さらに氏康がこの世を去り、父の氏政が再び、武田と同盟を結んだことから今川氏とは手切れとなり、北条氏に戻されたあと、嫡男の扱いを受けたのではないか。

 氏直は天正八年(1580)、一九歳で家督を継承。北条氏は当時、西の織田信長と手を組み、この二年後の天正一〇年三月に、その彼がまず武田を滅ぼす。

 だが、同年に信長が本能寺で明智光秀に殺され、その衝撃が関東に押し寄せたことで、氏直は父が隠居後も政治を動かしていたため、自身の家督継承は名目的なものだったが、総大将として軍事活動を指揮し、そのターゲットは武田氏の旧領国。

 ここは一度、織田家の諸将が支配したが、本能寺の変で退却を余儀なくされたことから上野、甲斐、信州は“空き家”となり、それぞれ越後の上杉、武田氏の滅亡後に信長から駿河を与えられた徳川家康、そして、北条氏――という三大勢力の草刈り場となった(天正壬午の乱)。

 氏直はこうした中、武蔵と上野国の境を流れる神流川がわの合戦で、織田方の武将である滝川一益を撃破。

 織田勢を上野国から追い払い、碓氷峠を越えて信州に入ると、たちどころに国衆を帰属させ、北信濃川中島(長野市)に進出してきた上杉勢と対峙した。

 だが、謙信の養子である上杉景勝は当時、越後国内の反乱に悩んでいたことから川中島に地盤を築いただけで退却。氏直は上杉氏と和を結ぶと、甲斐に進軍し、領土の獲得に旺盛な意欲を見せつけた。

 北条軍は信州の徳川勢を追って八ヶ岳南麓を東に侵攻し、甲斐西部の若神子( 北ほ く杜と 市)に進出。家康はこれを迎撃すべく、甲府から新府城(韮崎市)に進んだ。

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