後北条氏を滅亡させた「最後の当主」北条氏直「秀吉に降伏の舞台裏」! (1/4ページ)

日刊大衆

写真はイメージです
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 戦国時代、長享の乱で上杉氏の勢力が弱体化した隙を突き、伊勢宗瑞(北条早雲)が小田原城を奪い取って相模国に足場を築いて以降、北条氏は関東八か国(関八州)のほぼ全域にまで勢力を拡大した。

 その譜は北条氏綱-氏康-氏政と続いたものの、五代目の氏直で廃絶。関東支配は終焉を迎えた。その原因は、どこにあったのか。

 北条氏直は永禄五年(1562)生まれとする説が最も有力で、越後の長尾景虎(上杉謙信)がこの二年前、小田原城を包囲したことから上杉氏と抗争が本格化する中、幼少期を過ごした。

 父は氏政で、生母は通説によると、武田信玄の娘である黄梅院。

 北条氏は氏康の時代、甲斐の武田氏と駿河の今川氏と甲相駿三国軍事同盟を結び、当事者の武将三人には当時、いずれも適齢期の娘がいた。

 そのため、氏康の娘が義元の嫡男である氏真に、義元の娘が信玄の嫡男である義信に、信玄の娘がやはり氏康の嫡男である氏政に嫁いだことから、氏直は当然、その正室だった黄梅院の子と思われてきた。

 だが、氏直が生まれた際に本来、外祖父となる信玄に安産祈願をした形跡がないことから、黄梅院が生母であるとする通説に疑念が発生。

 氏直(幼名国王丸)は今川氏が義元の死後、同盟を反故にした信玄に駿河に攻め込まれ、氏真に当時、後継者がいなかったことから氏康が後押しし、八歳で養子に出された。むろん、北条氏が跡継ぎを他家に養子に出すことは考えづらい。

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