後北条氏を滅亡させた「最後の当主」北条氏直「秀吉に降伏の舞台裏」! (3/4ページ)

日刊大衆

 その勢力はおよそ二〇〇〇で、その他の軍勢を掻き集めても一万。北条勢は二万余とされる大軍だったものの、氏直は苦戦。

 彼は甲府盆地の家康の背後を突き、若神子の本隊と挟撃する作戦を企て、武蔵と接する甲斐の都留郡に別働隊を進行させたものの、対陣が長引き、勝機を逸した。

 その後、小田原から長駆遠征していた氏直の軍勢は徳川軍に補給路を断たれ、常陸国の佐竹義重が背後から北条の領国を窺う姿勢を見せたこともあり、和睦に合意。

 結果、両者は同盟を結び、上野は北条の領国として認められたものの、甲斐と信州は徳川のものとなり、氏直は旧武田領国の奪い合いで後塵を拝する形となった。

 だが、氏直は家康の娘である督姫をめとり、これが後に自身の命を救うことになる。

■氏直は秀吉に許されて大坂城で対面したが…

 氏直が関八州の領国内を固めている間、羽柴(豊臣)秀吉が天下を掌中に治めると、上杉は父祖の代以来、長年の好敵手だった彼に従い、天正一四年(1586)一〇月には家康も大坂城で謁見して臣従。

 一方、督姫を正室とする氏直は家康との関係が疎遠になり、やがて秀吉の惣無事令(豊臣政権による私戦禁止令)が関東に及んだことから彼に従うか否か、選択を迫られた。

 すると、同一六年(1588)五月には家康から「(豊臣家への)出仕の儀、納得無きにおいては家康娘(督姫)、返したまうべき事」という恫喝めいた書状が届き、氏直の叔父である氏規はやがて小田原を発ち、駿府(静岡市)で彼の重臣だった榊原康政を伴って上京。

 京の聚楽第で秀吉に謁見したが、北条氏の内部では秀吉に従うことをよしとしない一派も多く、それが結局、同一七年(1589)一一月の北条討伐令につながり、翌年四月に秀吉は大軍で小田原城を包囲。

 籠城はおよそ一〇〇日に及び、この間に関東の北条方の諸城が攻め落とされ、氏直は重臣だった松田憲秀の内応もあり、秀吉方の和議に応じて降伏した。

 ただ、氏直は秀吉に対する臣従に柔軟な考えを示し、むしろ父である氏政が強硬派とされていた。

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