上野の寛永寺の根本中堂に日本では数少ない亀趺(きふ)が残っている (3/4ページ)
しかしそれは、江戸初期、元和・寛永期の1615〜1644年頃、日本唯一の外国との窓口であった長崎に、明朝末期の動乱を避けて来日していた僧侶たちによって黄檗宗がもたらされ、それが全国的に展開したことと、深い関わりがある。そうした人物のひとりである隠元が1661(寛文元)年に開山した、京都府宇治市の萬福寺には、隠元を顕彰する「隠元禅師塔碑」があり、碑文には、1673(延宝元)年に後水尾天皇(ごみずのおてんのう、1596〜1680)から隠元に贈られた「特賜大光普照國師塔銘」の文字が刻まれている。この亀趺が、日本に散在する亀趺のもとになったと考えられている。
■一般化しなかった亀趺
「漢字」などの「中国文化」そして「仏教」が日本に入ってきたのは、大体6世紀。いわゆる「大昔」のことであるため、17世紀を生きていた人々にとっては、それらは既に「日本」文化の一部になっており、いわゆる「中国らしさ」、或いは「本物らしさ」を失った、ある意味「旧態依然」のものでしかなかった。しかし黄檗宗が、徳川家康(1543〜1616)によって天下統一がなされた「時代の転換期」にもたらされたことで、「古くて新しい」中国文化並びに仏教として、また、新たな「宗教的権威」を必要としていた江戸幕府を中心とした当時の支配層に広く受け入れられた。しかし亀趺は皮肉にも、「仏教」や「中国文化」そのものがもともと、日本に深く広く浸透していたことから、「おめでたいもの」「長寿」のシンボルとしての「亀」と結びつく形で、亡くなった著名人の供養や顕彰を目的とした石碑造営に当たり、大規模なブームまたは規範となって今日に至るほどの勢いを持つことはなかった。
■さて台湾カステラは一般化するのだろうか
「台湾カステラ」がコロナ禍の現在から今後、どのような運命を辿るのかはわからない。一過性のものとして、すぐに忘れ去られてしまうのか。それとも「ラーメン、餃子…」などのように、我々の生活に「当たり前のもの」として定着し、場合によっては旧来の「日本のカステラ」を駆逐するほどのものになるのか。
また、近くて遠い中国だが、「亀趺」や「台湾カステラ」のように今後も、大昔から存在していた文化並びに文物が「今ごろになって」、新たに紹介される可能性も大いにある。