少年マンガっぽい響きにキュン!古代ヤマト政権「倭の五王」の正体とは? (2/5ページ)
彼らは「讃・珍・済・興・武」という名で呼ばれています。ただ、後述しますがこの名前は本名ではありません。
『宋書』倭国伝によると、宋の時代(420~479)に、この「倭の五王」の使いが貢物を持って参上し、臣下の礼をとったそうなのです。
当時の中国は分裂状態で、南北でそれぞれまとまった国家を成立させていました。日本は、このうち「南朝」の国に貢物をすることで称号や地位をもらっていました。
なぜ、そんなことをする必要があったのでしょう?
今回は、この「倭の五王」の動向を通して、当時の日本とその周辺のことについて掘り下げてみようと思います。
当時の朝鮮半島諸国との関係「倭の五王」の動向の理由を知るには、当時の朝鮮半島の情勢を知っておく必要があります。
当時、朝鮮半島北部の国「高句麗」は、南下政策をとっていました。
そのため、南部の国「百済」や中南部にあった小国家群「加耶諸国」は圧迫される形になっていました。
それは、当時の「倭」で絶大な力を持っていたヤマト政権にとっても都合の悪いことでした。加耶諸国から得ていた鉄資源が途絶えるおそれがあったからです。
また、ヤマト政権は、大陸からの文化を摂取することで文明的な力をつけ、国内の諸豪族を従わせていました。国外での勢力を維持することは、国内での権力と政治の安定を維持するための必須条件でもあったのです。
よって、ヤマト政権は、百済や加耶諸国と手を組んで、高句麗と戦うようになりました。