少年マンガっぽい響きにキュン!古代ヤマト政権「倭の五王」の正体とは? (4/5ページ)
当時は、朝鮮半島の諸国も同じようなことをしていました。こうしたやり方が、当時のスタンダードだったのでしょう。
その結果、ヤマト政権は朝鮮半島内の新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の統治について公認を得ています。
また、倭の五王が中国へ使いを送っていた理由はそれだけにとどまりません。当時の中国の文明を摂取しつつ、皇帝の威光によって日本国内の支配と安定をはかっていたとも考えられています。
「倭の五王」の正体はさて、では「倭の五王」として記録が残っている「讃・珍・済・興・武」とは何者だったのでしょうか?
この「讃・珍・済・興・武」というのは、いずれも当時の「倭」の王で、名前を中国の習わしに合わせて漢字一文字で表したものです。しかし具体的に「どの王がどれを名乗ったのか」は記録がないため判然としません。
ここで、天皇の歴史が記された『日本書紀』『古事記』と、『宋書』倭国伝を突き合わせていく作業が必要になります。
まず結論を述べると、「讃」と「珍」は、史料同士の食い違いが多いためその正体を特定するには至っていません。
他の「済・興・武」については、
済……允恭(いんぎょう)天皇
興……安康(あんこう)天皇
武……雄略(ゆうりゃく)天皇
とするのが、最も有力な説となっています。
このうち、「武」にあたる雄略天皇は古墳時代で最も有名な大王です。彼は強烈なカリスマを持った武人で、従わない勢力を徹底的に潰したといわれています。
その頃、ヤマト政権内部では天皇家の勢力が衰えていたのですが雄略天皇によって盛り返しています。
そして中国の記録では、「武」という王は日本や新羅、加耶の軍を束ねる将軍としての称号を与えられています。
