福岡県春日市の日拝塚古墳の歴史や太陽との関係性を調べてみた (2/4ページ)

心に残る家族葬

埴輪や並びに人骨などは現存していないが、銅製の鏡、金製垂装飾付き耳飾りや金輪、太刀や鎧、馬具や農耕具などの鉄器・須恵器などの副葬品が発見され、東京国立博物館に所蔵されている。

土地の支配者や有力者を埋葬した古墳そのものは、規模や現存状態、副葬品の量や質はともかく、「福岡」という「場所」に限らず、日本各地に存在する。しかし時を経て、この古墳の周辺地域に住む人々によって名づけられた、本来の存在意義から離れた意味合いを持つ言葉「日拝塚」こと、「太陽を拝む塚」というのは、一体何を意味しているのだろうか。

■日を拝む塚・日拝塚古墳と太陽の関係


古墳の前方部が西に向いていること。しかもそれはただ「西向き」というのではなく、東と西の主軸が正確に、日の出・日の入りの方向を示していること。そして春・秋のお彼岸の折には、古墳から東におよそ16km先にそびえる、福岡県飯塚市と筑紫野市にまたがる、高さ652mの大根地山(おおねちやま)から上る朝日を拝むことができることは、「偶然」なのだろうか。それとも、この古墳に埋葬されていた有力者や、有力者を祀った遺族、そして今日で言う「宗教指導者」、更に「設計技師」、「施工者」、「資材調達者」並びにそれらを束ねる「コーディネーター」たちは、あえてその有力者を葬るためばかりでなく、「太陽を拝む」ための「場所」となることを目指し、「ここ」に古墳をつくることにしたのか。

■同時代に作られた福岡県うきは市の珍敷塚(めずらしづか)古墳との関係性

日拝塚古墳からおよそ50km南に下った、うきは市吉井町(よしいまち)にある珍敷塚(めずらしづか)古墳がある。日拝塚古墳と同時代につくられたものというが、古墳そのものは昭和25(1950)年に発見されたものの、既にほとんど原型をとどめておらず、奥壁と壁の腰石だけが現存している状態だ。しかし奥壁には、赤と青の顔料を用いた太陽信仰や死生観を示す壁画がある。経年劣化により、一見わかりにくいが、そこには、左上に大きな同心円。その真下には進路を右側に取る小船。

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