福岡県春日市の日拝塚古墳の歴史や太陽との関係性を調べてみた (3/4ページ)

心に残る家族葬

小船には櫂(かい)を持つ人と、舳先(へさき)にはトリが止まっている。中央には死者を守るためなのか、弓が入った靭(ゆぎ。弓を入れる入れ物)と何らかの呪術的な意味合いがあると考えられる、蕨(わらび)手文。右側には、盾または弓を持つ人。その下に小さな同心円が描かれ、左と下に2匹の蟾蜍(せんじょ。古代中国で月に住むと信じられていたヒキガエル)とトリがいる。この絵を読み解くと、死者は、生または現世を表す太陽の下から船出し、最終的に死または死の国を象徴する月に向かうということになるのだろうか。

同時代に造影されたものであり、なおかつ距離的に「遠くない」ことから、日拝塚古墳のいわゆる「セッティング」も、珍敷塚古墳の壁画に見られる「太陽信仰」や「死生観」との共通点や類似点があっても、決して不思議ではないだろう。

■日拝塚古墳からの朝日は現在も眺めることができる

昭和4(1929)年、日拝塚古墳は盗掘に遭ったというが、近隣住民の努力によって、盗品の大部分は回収されたという。考古学的価値のみならず、金製の装身具など、まさに「金になる」副葬品はもちろんのこと、祀られた古代の支配者、「前方後円墳」というスタイルまたは様式で支配者を祀った当時の文化、そして太陽を拝むことができる神秘の場所が、古代から中世〜戦国時代〜江戸時代〜明治〜大正〜昭和…と実に長い間、大切に守られてきたからこそ、古墳の一部は高度経済成長期以降、農村地帯であった地域の大部分が「福岡市のベッドタウン」として宅地開発が進んだことによって、若干削られてはいるものの、今年の秋のお彼岸もまた、天気が許せば、大根地山の朝日を望むことができる状態で存在している。

■最後に…

もしも春や秋のお彼岸を迎えた時、日拝塚古墳で、大根地山に太陽が上る瞬間に立ち会うことができたならば、かつて儺縣(なのあがた)と呼ばれた、現在の福岡市博多区や春日市まで至る、那珂川流域一帯を治めていたと推察される有力者に、あなたが生きていた頃の「このあたり」はどんな感じだったのかと、清冽な朝日を浴びながら、問いかけてみたいものである。

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