武士の身分を剥奪、首級を晒され…明治時代、日本の法律整備を急いだ江藤新平の最期 (3/4ページ)

Japaaan

「自分たちが完璧な翻訳を成し遂げようとするのではなく、天下万民が法律の概念を理解し、力を合わせてよりよい社会を作っていく意識を醸成することこそ、我々にとって真の功績と言えるだろう」

「「「はい!」」」

自分だけがいいカッコをするより、みんなが参加できる公正な社会を目指す新平の理想に共感した官僚たちは、夜を日に継いでフランス民法の翻訳に心血を注ぎ、ついに完成させたのでした。

踏みにじられた新平の理想

そんな新平は裁判制度や警察制度の整備に尽力したのですが、不正を嫌うあまり藩閥政治の中で孤立してしまいます。

当時、明治政府の中で力を持っていた長州藩閥の山県有朋(やまがた ありとも)や井上馨(いのうえ かおる)らが関与していた汚職事件を厳しく追及。もみ消しを図る大久保利通(おおくぼ としみち)と対立した結果、明治6年(1873年)に閣僚を辞任しました(明治6年の政変)。

月岡芳年『皇国一新見聞誌 佐賀の事件』

故郷の佐賀に帰った新平はしばらく静養していたものの、明治維新に大きな功績を上げながら、新政府に報いられなかった不平士族に担ぎ上げられ、彼らの暴発を抑えきれず、とうとう兵を挙げざるを得ませんでした(佐賀の乱。明治7・1874年)。

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