開港から明治維新まで相次ぎ発生していた攘夷派による横浜での外国人殺傷事件簿 (2/4ページ)

Japaaan

『WOROSIJAZIN(ヲロシヤ人)遊行』一鵬斎芳藤(国会図書館デジタルコレクション)

ロシアは幕府に対して賠償金を請求することはなかったが、殺害された2名の墓標を造り、それを永久に保護することを求めた。

この事件の犯人は長らく不明のままだったが、6年後の慶応元(1865)年に水戸天狗党の小林幸八だったことが本人の自供で判明し、横浜で処刑された。

オランダ人船長殺害事件

 ロシア海兵殺害事件とオランダ人船長殺害事件の現場付近。『神名川横浜新開港図』歌川貞秀(浮世絵検索)

安政7(1860)年2月26日、オランダ人船長フォスとデッケルが買い物を済ませ、船に戻ろうとしていたところ惨殺された。殺害現場は前年にロシア海兵殺害現場が起きたわずか100mほどの場所だった。

オランダは幕府に対して1700両の賠償金の支払いと犯人の処刑を要求し、この事件は日本が外国に賠償金を支払った前例となった。

しかし、賠償金は支払ったものの、肝心の犯人は最後まで判明せず不明のままである。

「開港から明治維新まで相次ぎ発生していた攘夷派による横浜での外国人殺傷事件簿」のページです。デイリーニュースオンラインは、尊皇攘夷尊王攘夷明治維新明治時代江戸時代カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る