あの渋沢栄一をして「無学の偉人」と言わしめた、三井財閥中興の祖・三野村利左衛門とは? (2/5ページ)

Japaaan

紀ノ国屋はそれほど大きい店ではなく、妻・かなが作った金平糖を25歳の若い利左衛門が行商するというスタイルの商売でした。

利左衛門にとっては巨利を得るようなビジネスではありませんでした。しかし、ここで行商を重ねたことで市井との協力なネットワークを作ることができたのは、後の利左衛門に大きな力となりました。

東都名所 駿河町之図 Wikipediaより

紀ノ国屋で地道に資金を積み立てると、安政2年(1855)、利左衛門は小石川伝通院前の両替商・伊勢谷の株を買い、両替商に転じました。転職したばかりの利左衛門は、当初、商売のイロハを学ぶために同じ両替商で大店の三井家に出入りすると、程なく三井家の番頭たちに可愛がられるようになります。

「三井御用所」の責任者に

利左衛門は生来、大変人好きな性格で、機転もよく効き、行商時代に培ったネットワークを利用して、三井家に様々な情報をもたらすと、その功績が評価され大番頭に抜擢されました。現代風に置き換えると、大企業にアルバイトで入った者が成績を挙げ、重役に就任するくらいの大出世と言えるでしょう。

利左衛門のバイタリティーと鋭い機転は、苦しい流浪の日々を送った頃に養われたのではないかと考えられます。明日の自分がどのようになっているのか定かではないギリギリの状況の中で生き抜いてきたことで、利左衛門のセンスが磨かれていったのだと思われます。

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