あの渋沢栄一をして「無学の偉人」と言わしめた、三井財閥中興の祖・三野村利左衛門とは? (3/5ページ)
当時の三井家は幕府との強いパイプがあり、それ故に幕府御用金を献金しなければならず、その額は150万両にも上りました。そこで、三井家は勘定奉行・小栗上野介忠順との伝手があり、かつ機転の利く三野村利左衛門を減免交渉役とすると、交渉の末、御用金を当初の1/3程度の50万両まで減額させることに成功します。
この交渉の背景には、幕府が大店から御用金を搾取することで弱らせるより、育成させることで幕府財政の支えとする思惑があったものだと考えられます。この功績により、三野村利左衛門は幕府御用金の一切を取り仕切る「三井御用所」の責任者となりました。
そして、慶應4年(1868)、小栗上野介忠順が罷免されるのを見た利左衛門は時代の機運を察し、幕府から新政府へ方向転換するよう、三井家に働きかけました。
もし、ここで三井家が別の選択をしていたら、後の三井グループはどのようになっていたか定かではありません。