あの渋沢栄一をして「無学の偉人」と言わしめた、三井財閥中興の祖・三野村利左衛門とは? (1/5ページ)

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あの渋沢栄一をして「無学の偉人」と言わしめた、三井財閥中興の祖・三野村利左衛門とは?

「あのくらい学問もしないで、制度について不思議な才能を持っているひとはいない。そしてそれを説明するときに丸をいくつも書く。三野村のまるまると言ったら有名なものだった」

渋沢栄一 Wikipediaより

渋沢栄一は三野村利左衛門に対し、このように評価をしていました。渋沢栄一からその手腕を認められるほどの経済人・三野村利左衛門が、幕末明治の過渡期に日本に多大な功績を残したことは、意外にもあまり知られていません。

しかし、元は一介の浪人に過ぎなかった彼が、いかにして日本の要人となったのかを見ることによって、当時の時代背景が詳細に見えてきます。

文政4年(1821)、三野村利左衛門は庄内藩士・関口松五郎の次男として鶴岡で生まれました。松五郎は藩主の家中・木村家に養子に出されますが、文政10年に出奔…利左衛門は浪人となった父と共に諸国を流浪することになります。

このように利左衛門の前半生は、明確な記録が残っておらず、恐らく、苦しい時期を過ごしたと想像できます。

利左衛門が江戸へ

そんな利左衛門が江戸へ出てくるのは天保10年(1839)。旗本・小栗上野介忠順に中間として仕えました。小栗家では、利左衛門の働きぶりはとても真面目であったようで、その評判は近所の人にも知られるほどであったと言います。そして、小栗邸の前で油や砂糖の商売を営んでいる紀ノ国屋の美野川利八から、利左衛門を婿養子としてほしいという話がきました。

弘化2年(1845)、利八の娘・かなの婿となった三野村利左衛門は紀ノ国屋を継ぎ、当主として一家を背負っていきます。

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