東京オリンピックという名のお祭りと神事としての祀りと祭り (2/3ページ)

心に残る家族葬

主人公・ルフィたちがカイドウと決戦中であることなど知らない民は、また明日から変わらない日々を生きていくことに諦めつつ承知しながら祭りに我を忘れようとしていた。「火祭り」は彼らの生きがいである。火祭り会場の中心には、かつての英雄を模した神が祀られている。彼らは祭りの日だけは、その英雄の一族がカイドウらを倒してくれる夢を見るのであった。祭りは自力の限界を突きつけられた人間の「祈り」そのものなのである。

■祭りの「力」

祭りには「力」が満ちている。普段慎ましく生きている人々の鬱憤が解放され不安が浄化され、時にエクスタシーにまで到達し、熱気熱狂が伝わる。そしてまた明日からの日常を生きるエネルギーを蓄える。「火祭り」は実際に世界中で行われているスタンダードな祭りの形態である。火には浄化の力があり、天に上昇する力の表現であり、エクスタシーの象徴でもあった。東京オリンピックの熱狂もコロナ禍における祭りの様相を呈している。選手たちの活躍に拳を突き上げた瞬間、確かに日頃の不満や鬱憤が浄化される感覚があるだろう。燃える聖火も火祭りを連想させなくはない。

■東京オリンピックへの反対意見も理解できるが

反対の声もいちいちもっともである。感染の拡大にどれほどの影響があるのか、それだけの財政をコロナ対策に回せばとの声もある。反対を標榜していたマスコミや一部の野党政治家の「手のひら返し」にも呆れるところはある。しかしSNSなどを見るにつけ、彼らのような損得勘定に関係ない一般人の「手のひら返し」も多いようだ。やはりコロナに疲弊している日々にあって、祭りの「力」に惹かれているからではないか。
オリンピックを祭りと考えれば精神的な意味はあると思われる。日本人だけではない、母国選手の活躍は世界の少なくない数の人々に感動と希望を与えていることは事実である。大国は自国に誇りを持ち、小国は英雄の誕生、活躍に希望を見出す。「たかが運動会」と揶揄する声も散見されるが、運動会は「たかが」であろうか?運動会は家族の大イベントである。我が子が1着を取って喜ぶ姿、運動が得意でないのに最後まで頑張った姿は一生の宝だろう。まさに「ハレ」の日である。

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