破壊、打ち捨て、ムチ打ち…古代日本、豪族たちのケンカの火種はなんと「仏教」だった (3/5ページ)
同じく、蘇我稲目の息子である蘇我馬子(うまこ)も、父の後を引き継いで大臣となります。
この世代交代が行われた後、またしても百済から仏像が贈られてきます。それは弥勒菩薩の石像でした。
崇仏派の蘇我馬子は、さっそく寺を作ります。
そこには三人の尼僧が入りました。これが日本で最初の僧侶です。
しかしこの直後に、馬子は病に倒れました。さらに疫病まで流行します。
これでまた勢いづいたのが物部守屋。
「そらみろ、仏教は排除すべきなんだ!」
彼は父親と同じように寺を破壊し、仏像を投げ捨て、さらに三人の尼僧をむち打ちに処しました。
ところが、今度は守屋本人と敏達天皇までもが病に倒れてしまいます。これには、人々も「仏罰ではないか」と噂します。
そして585年、敏達天皇は崩御しました。
これがきっかけで、仏教をめぐる対立はますます激化していきました。
今度は、誰に天皇の地位を継がせるか? という問題がややこしく絡み合っていったのです。
決定打となった「丁未の乱」敏達天皇の崩御後、新しく皇位についたのは崇仏派の用明天皇でした。蘇我馬子の甥にあたります。
さっそく用明天皇は、仏教を公認したいと考えて臣下たちに議論をさせます。その結果、多くの人が蘇我氏の味方につきました。
危機感を抱いたのは物部守屋です。彼は彼で、別荘のあった河内国(現在の大阪府東部)で味方を集めることにしました。