破壊、打ち捨て、ムチ打ち…古代日本、豪族たちのケンカの火種はなんと「仏教」だった (4/5ページ)

Japaaan

その後の587年、用明天皇はたった二年の在位で崩御しました。

そこで守屋は、欽明天皇の皇子である穴穂部皇子(あなほべのみこ)を即位させようとします。もともと守屋は用明天皇の即位を快く思っておらず、穴穂部皇子と手を組んでいたのです。

一方で蘇我馬子は、のちの崇峻天皇である泊瀬部皇子(はつせべのみこ)を推しました。

蘇我馬子(日本の歴史.comより)

もともと対立していた権力者一族が、それぞれ別の皇位継承者を推し立てたのです。ケンカにならないはずがありません。ここで対立は頂点に達し、ついに軍事衝突となりました。

先手を打ったのは蘇我馬子でした。彼は587年に穴穂部皇子を殺害すると、さらに物部守屋を討つために大軍を集めて挙兵します。

対する物部氏は軍事を司る氏族。ただでやられるはずがありません。城を築いて防御を固めた物部守屋たちの前に、馬子らは三度に渡って撤退を余儀なくされました。

ここで馬子は、仏様にすがります。「この戦いに勝ったら寺を建立します」と誓いを立てました。

また、蘇我氏と血縁関係にあった厩戸皇子(のちの聖徳太子)もこの戦いに参加していました。彼は四天王の像を彫って勝利を祈願しています。

仏法の加護もあってか、ついに馬子は物部守屋を討ちます、そして崇城天皇を即位させました。

この戦いを「丁未の乱(ていびのらん)」といいます。

この戦いに勝利したことで、蘇我氏の権力はますます強大なものになりました。そして日本に仏教が本格的に根付くおおきなきっかけともなったのです。

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