破壊、打ち捨て、ムチ打ち…古代日本、豪族たちのケンカの火種はなんと「仏教」だった (2/5ページ)
仏教反対の声があるからと言って、百済の王から贈られてきた仏像などを捨てるわけにはいきません。下手をすれば国際問題に発展します。
そこで天皇は、崇仏派である蘇我氏の長・蘇我稲目(いなめ)にこれらを渡して様子を見ることにしました。
蘇我稲目は、さっそく飛鳥の向原というところに仏像を安置しました(552年)。これが日本最初のお寺です。
ところがこの直後に、国内で疫病が流行します。
これに「それ見ろ」と言い出したのが、物部氏の長・物部尾輿(おこし)です。「外国の神様を奉ったりするから天罰が下ったんだ。仏像など捨てましょう!」と欽明天皇に訴えます。
欽明天皇もこれには反対できませんでした。
物部尾輿は、さっそく向原の寺を焼き払って、安置されていた仏像を捨ててしまいます。
ところがこの直後に天皇の住む大殿で火災が発生し、それを受けて欽明天皇は霊木から二体の仏像を彫らせたりしています。
最高権力者である天皇がこんなどっちつかずの態度なので、崇仏派と廃仏派の対立は決着には程遠い状況でした。
この対立は、物部尾輿、蘇我稲目、そして欽明天皇の三人が亡くなった後も次世代へと受け継がれることになりました。
571年に欽明天皇が崩御し、敏達天皇が即位したのち、物部尾輿の後継となったのは息子の物部守屋(もりや)でした。彼はもちろん廃仏派です。