「鬼」になり切れなかった大久保利通の悲哀。西南戦争に西郷隆盛はどこまで関与した? (2/5ページ)

Japaaan

設立者の西郷は湯治に行って学校を空けることが多かったのです(もともと西郷は幕末の頃から心身の不調に苦しんでいたとされています)。

桐野利秋といえば「人斬り半次郎」の異名を持つ男。禁門の変や鳥羽・伏見の戦いで奮闘して後は陸軍少将に任じられ、熊本鎮台司令長官、陸軍裁判所長を歴任しました。

当時、その彼は極端な反政府思想を持っており、私学校の生徒たちを率いて暴走していくことになります。

すれ違う西郷と大久保

東京にいた大久保も、彼らをなんとか抑えようとしました。しかしうまい策はなく失敗が続いていました。

ついに私学校の幹部は、若者たちを煽って鹿児島城下に蓄えてあった火薬庫を襲撃し、銃や弾薬を強奪します。

これについて、当初、西郷隆盛はまったく知りませんでした。

だから大久保もある意味で安心していたのでしょう。伊藤博文に宛てた書簡で「私学校の連中のやっていることに大義名分はない。これで堂々と討伐できる。西郷もこの一件は不同意に違いない」と書いています。

むしろ彼は、不満分子を一網打尽にし、親友である西郷を救ういい機会だと考えていたようです。

こうして西南戦争へと突入していきます。

事態がここまで及んでも、政府高官の多くは、この反乱と西郷とは無関係であくまでも首謀者は桐野利秋だと考えていたようです。

西郷が反乱の勃発について知らされたのは、火薬庫の襲撃から三日目のことでした。その時彼は、大隅の小根占へ狩猟に出かけていたそうです。

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