人柱など必要ない!少女の命を救った戦国武将・毛利元就の教え「百万一心」とは (2/4ページ)

Japaaan

「山じゅう探しても見つからなかった……(拓本からすれば)あんなデカいものが、どこへ消えてしまったのだろう……」

武田泰信がウソをついた(拓本をデッチ上げた)可能性もなくはないものの……やがて吉田郡山城における「最大の謎」となった「百万一心」石碑ですが、そこにはこんな伝承があったそうです。

人柱など許さない!毛利元就の教え

時は戦国、永正5年(1508年)ある日のこと、当時12歳だった毛利元就(当時は松寿丸)が厳島神社を参拝したところ、5~6歳ほどの小さな女の子が泣いているのを見つけました。

「いかがしたか」

聞けば少女は母親と二人で巡礼の旅をしていたが、ある旅先で母親が築城の人柱に選ばれ、そのまま生き埋めにされてしまったそうです。

運悪く人柱にされた母親(イメージ)

「何とむごい……こんな幼な子を遺して、お母上もさぞや辛かったろうに……」

自分自身も幼くして両親と死に別れているため、他人事には思えなかった元就少年は、少女の身柄を引き取ることにします。

それから15年の歳月を経た大永3年(1523年)、すっかり成長した元就は吉田郡山城へ入りますが、本丸の石垣が何度も崩れて困っていました。

「これはやはり、人柱を立てねば神様が鎮まらぬのでは……」

誰かが口を開くと、普請奉行は「そう言えば、昔お屋形様が引き取った娘がおりましたな。あれを人柱にしてはいかがでしょうか」と進言。

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