啼くよウグイス平安京…実は遷都当初から完成形じゃなかった!?その理由とは (3/4ページ)
みさと(御郷)とはそのまま故郷の意。平安京には右京と左京があるけれど、左京のみが御郷であり、右京など知らぬという心情が『小右記(藤原実資の日記)』に綴られています。
更に時代が下って治承4年(1180年)、『玉葉(九条兼実の日記)』によるとかの平清盛(たいらの きよもり)が福原への遷都を強行する際、移転の対象を左京の四条大路より北のみに指定。
清盛が「遷都」を命じた地域(朱雀大路より東、四条大路より北)。Wikipediaより(画像:咲宮薫氏)
これは平安京全体のおよそ20%に過ぎず、清盛はそこだけが都と認識していた≒それだけ平安京に象徴される貴族社会が衰退していたことを示しています。
とは言え、右京でも都市整備がまったく行われなかった訳ではなく、広々とした空閑地に中小規模の都市的空間が点在。耕作地とモザイク状に入り組んで独自に発展していました。
あまりよい土地ではないため庶民や下級官人らが住みつき、そこから官庁へ出仕していたと考えられます。