啼くよウグイス平安京…実は遷都当初から完成形じゃなかった!?その理由とは (2/4ページ)

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平安京の復元模型。向かって左側が右京地区。Wikipediaより(撮影:名古屋太郎氏)

特に右京(御所から見て右側=中央を走る朱雀大路より西側)地区については、そのすぐ西側を走っている桂川や紙屋川(天神川)の氾濫水域。

かねて「卑湿の地(弘仁10・819年11月5日、太政官符)」などと呼ばれており、もし実際に都市を造っていたところで、しばしば破壊されてしまったことでしょう。

実際に発掘調査でも右京の朱雀大路より西、二条大路より南(要するに右京地区のほとんど)では路面や側溝が発見されておらず、そこまで整備の手が回らなかった当時の状況が偲ばれます。

そのため右京地域については遷都から間もなく廃れがちに。右京を「長安」左京を「洛陽」とオシャレに呼んでいたため、やがて残る「洛陽」が平安京≒京都の別名となりました。

ちなみに京都へ行くことを上洛(じょうらく)と言うのは、この「洛陽(左京)へ上がる」ことに由来します。

すっかり右京が忘れ去られた一つの証拠として、左京大夫(左京地区の行政長官)である藤原経通(ふじわらの つねみち)は「みさと司の藤原朝臣」と呼ばれていました。

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