調子に乗り敗者をなぶる徳川家康に猛反論!戦国武将・平塚久賀かく語りき (2/3ページ)
「よぅし、張り切って武功を立てるぞ!」
と慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の合戦で兄ともども奮戦した久賀。しかし武運つたなく味方は敗れ、兄は討死。自身も生け捕りにされてしまったのでした。
調子に乗った家康を批判「くっ、殺せ!」
「フフフ……そうはいかんぞ」
家康の前に引き出された久賀は、ここぞとばかりに貶されます。
「バカめ。我が誘いを断って治部(三成)につくとは、つくづく人を見る目がないのぅ。それで、武功を立てて褒美はいかほど貰ったのか……あぁん?」
勝てば官軍負ければ賊軍……負けてしまえば褒美もへったくれもない、たとえケチでも勝馬に乗らねばのぅ……とまで言ったかどうだか、頭に来た久賀は家康に藩論します。
「武士が戦さに臨んで捕らわれるのは恥辱にあらず。そもそも内府殿とて元は今川の人質だったではないか。