【鎌倉殿の13人】土肥実平が魅せた「焼亡の舞」、ボロボロの頼朝公を励ました旧跡「謡坂」 (3/4ページ)
ここは一つ、天下草創の前祝いと参ろうぞ!」
土肥実平「然(さ)ればそれがし、舞いなど一指し……」
土佐坊昌俊「いよっ、待ってました!」
頼朝公「やれやれ……ポジティブが過ぎるわ」
これらの会話はフィクションですが、こんな感じで頼朝激励会&船出の壮行会が行われたことでしょう。
ちなみに、現場にいたとされるメンバーは以下の通り(カッコ内は実平を中心とした関係)です。
源頼朝公
土肥次郎実平(どい じろうさねひら)
土肥弥太郎遠平(どい やたろうとおひら。実平の長男)
新開荒次郎実重(しんがい あらじろうさねしげ。実平の次男)
土屋三郎宗遠(つちや さぶろうむねとお。実平の弟)
岡崎悪四郎義実(おかざき あくしろうよしざね。実平の妹婿。演:たかお鷹)
土佐坊昌俊(とさのぼう しょうしゅん。実平の預け者)
田代冠者信綱(たしろ かじゃのぶつな。工藤茂光の娘の子・外孫)※能楽「七騎落」より
この場所は実平が謡い舞ったことから、後に「謡坂(うたいざか。神奈川県真鶴町岩42)」と呼ばれるようになったのでした。
エピローグ・焼亡の舞【謡坂】
治承4年(1180年)石橋山の合戦に敗れた源頼朝の一行は、箱根山中を逃れ出て岩海岸から房州(千葉県)へ向けて船出しました。その途中、無事を祝い再起を願って土肥実平がうたい踊ったと「源平盛衰記」にあります。