【鎌倉殿の13人】非業の死を遂げた工藤茂光、実際はどんな最期だった?その生涯をたどる (3/5ページ)
「源為朝強弓ヲ挽テ官軍ノ艦ヲ覆へス」図。大槻東陽著『啓蒙挿画日本外史』より
抵抗の虚しさを悟った為朝は最後の一矢をもって兵船1艘を沈め、その実力を示した上で自害。その首級を加藤景廉(かとう かげかど)が刎ねたのでした。
そんなこんながあって、豪族たちは力を合わせ(時には小競り合いを繰り返しながら)伊豆半島にひしめいていたのですが、そんな小康状態もやがて破られることになります。
治承4年(1180年)8月17日、伊豆蛭嶋(ひるがしま。現:伊豆の国市)に流されていた源頼朝(よりとも)が挙兵したのです。
太り過ぎで足手まといに?石橋山で非業の最期「我らは佐(すけ。頼朝)殿にお味方申す!」
「バカな!」
源氏につくか平家につくか……工藤・伊東一族は大きく分かれました。
【源氏方】
工藤茂光、工藤五郎親光(ごろうちかみつ。茂光の子)、田代信綱(たしろ のぶつな。茂光の孫)、宇佐美祐茂(うさみ すけもち。茂光の甥)……など。