【鎌倉殿の13人】非業の死を遂げた工藤茂光、実際はどんな最期だった?その生涯をたどる (2/5ページ)

Japaaan

良馬の産地に精兵多し

工藤一族の所領は伊豆半島の山間部ながら、良質な牧草地(牧之郷)を押さえていたことから軍馬が豊富で、伊豆半島で最大の勢力を誇りました。伊東の苗字は伊豆半島の東部を占めていたことに由来します。

(この一族は史料によって工藤、伊東、また狩野など異なる苗字で表記されますが、話の都合上適宜書き分けていることをご了承下さい)

兄の伊東祐家(すけいえ)は伊藤祐親(すけちか)の父であるため、祐親にとって茂光は叔父に当たりますが、大河ドラマでは明らかに祐親の方が老年っぽい配役でしたね。

工藤一族は伊豆半島のみならず伊豆諸島も管理しており、保元元年(1156年)に保元の乱に敗れた源為朝(みなもとの ためとも。頼朝の叔父)が伊豆大島に流されると、その監視役となりました。

しかし為朝は伊豆半島で大人しくしているようなタマではなく、京都でも恐れられた豪傑ぶりを発揮して伊豆七島を従えてしまいます。

為朝の謀叛を抑えきれなかった茂光は上洛して討伐の院宣を頂き、嘉応2年(1170年)4月に伊東・北条・宇佐美氏らを動員。兵船20艘、500余騎で伊豆大島へ渡海しました。

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