【鎌倉殿の13人】非業の死を遂げた工藤茂光、実際はどんな最期だった?その生涯をたどる (4/5ページ)
【平家方】
伊東祐親、伊東祐清(すけきよ。祐親の子)……など。
当時、伊東の嫡流は祐親が称していたものの、それは工藤祐経(すけつね。茂光の甥)から奪いとったものでした。
その暴挙に対する反感が、工藤一族をして頼朝に与せしめたものと考えられます。
歌川芳虎「治承四年兵衛佐頼朝石橋山義旗揚図」より、狩野介茂光(工藤茂光)。
しかし、源氏方は武運つたなく石橋山の合戦で惨敗。大庭景親(おおば かげちか)ら率いる3000騎の大軍に打ち破られてしまいました。
茂光は肥満体だったために逃げ足も遅れ、このままでは一族の足手まといになってしまいます。
「最早これまで……五郎(親光)よ。我は自害いたすゆえ、介錯せよ」
しかし親光は怯んだのか介錯を拒否。やむなく信綱がこれを引き受け、茂光の首級を親光に預けたのでした。
エピローグ志半ばにして倒れた茂光の墓は故郷よりほど近い静岡県函南町にあり、石橋山の敗戦後に父や弟と別行動をとって討ち取られた北条宗時(ほうじょう むねとき)の墓と並んで人々を見守っています。