源頼朝の先祖と死闘を演じた藤原経清(奥州藤原氏祖)の壮絶な生涯【その3】 (2/7ページ)

Japaaan

国府軍が完敗した「黄海(きのみ)の戦い」

安倍貞任・藤原経清軍が源頼義(国府)軍を破った黄海古戦場跡。(写真:T.TAKANO) 

頼義の焦りから起きた「黄海の戦い」

1057(天喜5)年9月、源頼義は朝廷に対し、安倍頼時を討ち取ったことを報告します。頼義はこの功績により、朝廷から論功行賞を受け取ることと安倍貞任・藤原経清討伐のための援軍を期待したのです。

しかし、朝廷は動きませんでした。藤原経清が予測したとおり、朝廷はこの戦いを頼義と安倍氏の私戦と見なしたのです。こうした朝廷の態度と経清の裏切りに対し、頼義は怒り心頭に達したことでしょう。

頼義:おのれ経清め。一度は安倍についたことを許してやったのは、余の温情によるものだ。平永衡と一緒にその首を晒してやることもできたのに、その恩を踏みにじるとは。こ奴だけは絶対に許せぬ!

源頼義はこうした状況を打破するために、11月に2000人の兵を率いて多賀城を出陣します。安倍氏に戦を仕掛けることで、なにがなんでも朝敵に仕上げる必要があったのです。

頼義出兵を察した安倍貞任と藤原経清は、河崎柵(一関市)に4000人の兵を集め、国府軍を待ち受けます。

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