「鎌倉殿の13人」頼朝の宿敵、伊東父子の末路は…?第9回放送「決戦前夜」を予習 (3/7ページ)
かつては頼朝と志を通じた伊東祐清だったが……。菊池容斎『前賢故実』より
「父が罪人として捕らわれているのに、子が恩賞を受けるのは孝道に反します。もしお許し下さるのであれば、父の志を継いで平家の軍勢に加わるため、お暇を頂戴できますでしょうか……」
頼朝はじめ御家人たちは祐清の親孝行ぶりに感動。涙ながらに彼を解き放ったのでした。
その後、祐親は養和2年(1182年)2月15日に自害して果てます。祐清は平家軍の一員として討死したとも、父の死に際して自分も処刑するよう懇願したとも言われています。
富士川の合戦時は遡って治承4年(1180年)10月20日、京都から進軍してきた平維盛(演:濱正悟。清盛の嫡孫)は武田信義(演:八嶋智人)らの率いる軍勢と駿河国富士川で対峙しました。
現地では頼朝の軍勢も布陣していましたが、武田の軍勢に比べると添え物的存在に留まり、平家方も討伐対象を武田に絞っていたとする説もあります。