死が近づいても知性は正常でいられるか?仏典や神話が果たす役割とは (2/3ページ)
「仏教は宗教でなく哲学である。仏教は無神論である」「釈迦は霊魂や超越神を否定した」云々。現代人はこうした非宗教的なテーゼにひかれるようである。実際釈迦自身が説いたとされる「無記」「無我」「無常」といった論は、いかにもクールな論理が展開されており、知性的論理的を自負するインテリには特に受けるようだ。
元々仏教は他の宗教に比べて理屈っぽい。精緻なインド哲学から誕生した仏教は、江戸時代によく行われたキリスト教との宗論では圧倒することが多かった。仏教の精緻さに比べると聖書はいかにも「おとぎ話」に見える。その仏教も自身の悟りから、他者の救いに重きを置く大乗仏教となるとキリスト教のような神話的な物語に変わってくる。
法華経には無数の仏が地の底から湧き出てくる幻想的な様子などが、聖書に劣らない文学的表現で描かれている。また法華経においては史実の釈迦は仮の姿であり、釈迦自身は気の遠くなるような過去から未来にかけて永遠に存在し真理を説いていると説く。これを「久遠実成の釈迦如来」と呼ぶ。浄土仏教の聖典「無量寿経」でも、法蔵菩薩という王子が気の遠くなるような年月を経て、阿弥陀仏になったと説かれている。もちろん神話であり、論理どころの話ではない。大乗仏教にもその根幹には中論、唯識、華厳などの精緻な哲学が完備されている。ではこれらの「おとぎ話」にしか見えない物語は何を示しているのだろうか。
■崩壊する「知」
哲学は頭の中で理屈をこねくりましているだけの学問ではない。プラトン、アリストテレスらギリシャの賢人は宇宙の真理について深く思考した。彼らは哲学とは世界が「存在」することに対する「驚き」(タウマンゼイン thaumazein)であると言っている。存在とは何か、生とは、死とは。哲学は答えの出ない問いを永遠に考え続ける。池田晶子(1960〜2007)は哲学は何かについて「何の役にも立たない。かえって困る、苦しくなる」。ただの「癖」だと身も蓋もなく言い切った。哲学は救われるためにあるのではない。かくして救いを求める民衆は、現代の知識人が範とする知の芸術・ギリシャ哲学より「おとぎ話」であるキリスト教を選んだ。限界状況において「知」は脆くも引き裂かれ、宗教という「おとぎ話」が立ち上がってくる。