死が近づいても知性は正常でいられるか?仏典や神話が果たす役割とは (3/3ページ)
さすが非凡な文学者である石原氏は法華経に基づく仏法に触れ、「大きな仕組み」「不可知な巨きな力」などと人知を超えた世界について幾度も触れ、法華経に基づく死生観を大いに語っている。まさにその世界が自身に開かれた場面を綴ったはずの絶筆には、法華経は登場しなかった。氏は「知」を超えた世界を感得しながらも、その世界に身を委ねることも「知」を捨てることもできなかったのかもしれない。無頼に生きた知識人の業といえるだろうか。
■「おとぎ話」が示すもの
本来永遠なる「久遠実成の釈迦如来」である釈迦は、人の身体を持つ存在として死んだ。その理由について法華経は、永遠の存在が傍らにいては人間は怠けるからであると説く。頼れる師がいなくなり弟子たちは必死になって修行に励むようになった。人間とはそういうものだろう。リアルな死に直面した時、初めて生死とは何かに向き合う。その時、頼りの「知」は崩壊するかもしれない。仏典の「おとぎ話」はその先の、生死の向こうの世界を示唆し人を導く。この導きを受け入れるか否かが今生の最後の選択となるのである。
■参考資料
■池田晶子「メタフィジカル・パンチ ー形而上より愛をこめて」文藝春秋(1996)
■絶筆 石原慎太郎「死への道程」文藝春秋 2022年齢4月号
■石原慎太郎「法華経を生きる」幻冬舎(1998 )