死が近づいても知性は正常でいられるか?仏典や神話が果たす役割とは (1/3ページ)

心に残る家族葬

死が近づいても知性は正常でいられるか?仏典や神話が果たす役割とは

宗教の経典は現代人からすると神話・おとぎ話にしか見えないだろう。特に論理的思考を自負するインテリにはなおさらである。しかし自身の死などの限界状況に陥った時もその思考を保っていられるか。そのとき宗教の「おとぎ話」は切実なリアリティを持つ。

■石原慎太郎と法華経

石原慎太郎氏(1932〜2022)の絶筆「死への道程」が文藝春秋に掲載された。余命宣告を受けた石原氏は「私の神経は引き裂かれたというほかない」と齢90にして死を恐怖し、生に執着する。そして最後は「死は存在しない。俺が死ぬだけだ」と締めている。俗世への隠せない執着や最後の開き直りは無頼な文学者らしい終わり方といえる。

しかしこの絶筆には欠けているものがある。「仏典の王」と言われた大乗仏教経典「法華経」である。石原氏といえば法華経に傾倒しており、自ら現代語訳まで著している。それほど範にしていたにもかかわらず、この絶筆には「法華経」について全く触れていない。それどころか仏教そのものにすら言及していないのである。絶筆にはヘミングウェイとジャンケレビッチ、美空ひばりの名が挙げられているのみであった。

「私の神経は引き裂かれた」。氏と法華経の関係を考えたとき、宣告を受けた氏の衝撃は意外なものだと感じてしまう。これほど生死の真理を説く仏法を深く学んでいた人でも、限界状況に直面したときはこうなってしまうのかと。しかも絶筆の直後のに掲載された息子の手記によると、「俺は女々しく死んでいくのだ」と話していたとある。リアルな死の前に法華経は何の役に立たなかったのか。死の宣告の前に仏法は吹き飛んでしまったのだろうか。

それは浅い理解かもしれない。彼ほどの文学者である。凡人にはわからない深遠かつ高度な理由で、あえて法華経に触れなかった可能性はある。悟りすまして格好つけるより「女々しく」死ぬ方が味わい深いといえなくもない。ヘミングウェイの不能を比較して、自分はまだ元気だと誇るあたりは彼らしくもある。しかし彼の著書には仏教を哲学として捉えているふしが見える。そこに綻びがあったのではないか。


■知性か神話か

いわゆる葬式仏教の形骸化とは対照的に、哲学的な仏教や、マインドフルネスなど宗教色を排した形での仏教は人気が高い。

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