「鎌倉殿の13人」いよいよ木曾義仲が登場!源頼朝と衝突した原因は?第13回「幼なじみの絆」予習 (4/5ページ)
「ここまでしてくれたなら、異心なきこと疑いあるまい。ちょうど我が家には成人の子がいないから、娘(大姫)の婿に迎えよう」
かくして源氏同士の全面衝突は避けられ、義高は頼朝と共に鎌倉へ帰っていったということです。
和議は成立したものの……寿永二年三月上旬に、兵衛佐と木曽冠者義仲不快の事ありけり。兵衛佐木曽追討の為に、その勢十万余騎で信濃国へ発向す。木曽は依田の城にありけるが、右を聞いて信濃と越後の境、熊坂山に陣を取る。兵衛佐は、同じき国、善光寺に着き給ふ。木曽、乳母子の今井四郎兼平を使者で、兵衛佐のもとへ遣はす。
「いかなる子細のあれば、義仲討たむとは宣ふなるぞ。御辺は、東八ケ国を討ち従へて、東海道より攻め上り、平家を追い落さむとし給ふなり。義仲も東山、北陸糧道を従へて、今一日も先に平家を攻め落さむとする事でこそあれ。何の故に、御辺と義仲と中を違うて、平家に笑はれんとは思ふべき。ただし、十郎蔵人殿こそ、御辺を恨むる事ありとて、義仲がもとへおはしたるを、義仲さへすげなうもてなし申さむ事いかんぞや候へば、うち連れ申したれ。全く義仲においては、御辺に意趣思ひ奉らず」
と言ひ遣はす。兵衛佐の返事には、
「今こそさやうには宣へども、たしかに頼朝討つべき由、謀叛の企てありと申す者あり。