「鎌倉殿の13人」佐藤浩市 演じる上総介広常の最期は近い!?第15回放送「足固めの儀式」を予習 (3/6ページ)
大江広元は、そこへつけ入った(イメージ)
誰よりも武衛に忠誠を誓っている広常であれば、万が一にも本心から謀叛に加担する可能性は限りなく低いはずです。
そして謀叛の中心人物となった広常が矛を収めれば、自然と他の御家人たちも戦意を喪失。謀叛は未然に防がれるか、仮に起こっても被害はごく限定的なものに留まります。
諸刃の剣である広常を始末できる上、御家人たちからも叛逆の士気を殺げる……まさに一石二鳥。
以前に広元が「鎌倉は安泰」と言ったセリフ通り、頼朝にとって絶好の「足固めの儀式」と言えるでしょう。
『愚管抄』が描く広常の最期では、史実の広常がどんな最期を遂げたのか、史料をひもといてみましょう。
広常が亡くなったのは寿永2年(1183年)12月22日。この年は鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』がの記述がほとんど抜け落ちているため、慈円の日記『愚管抄』から引用します。
ちなみに慈円(じえん)は九条兼実(演:田中直樹)の弟で、後に天台座主(てんだいざす。比叡山延暦寺の住職で、天台宗の総責任者)として活躍。大河ドラマには登場するでしょうか。
介の八郎広常と申し候し者は東国のノ勢人。頼朝打ち出で候いて君の御敵退け候はんとし候いし初めは、広常を召し取り手、勢にしてこそかくも打ちえて候しかば、功有る者にて候しかど、思い廻らし候えば、なんじょう朝家の事をのみ見苦しく思うぞ、ただ坂東にかくてあらんに、誰かは引働かさんなど申して、謀反心の者にて候いしかば、係る者を郎従に持ちて候はば、頼朝まで冥加候はじと思いて、失い候にきとこそ申しける。その介八郎を梶原景時をして討たせたる事、景時が功名と云うばかりなり。双六を打ちて、さりげなしにて盤を越えて、やがて首を掻き切りて持って来たりける。誠しからぬ程の事なり。細かに申さば、去る事は僻事もあればこれにて足りぬべし。この奏聞の様子誠ならば、返す返すも朝家の宝なりける者かな。