与えられるものが何もなくても人は人を幸せにできる 無財の七施 (2/3ページ)

心に残る家族葬



■無財の七施 「眼施」

「眼施」は優しいまなざしを向けて人と接すること。「目は口ほどに物を言う」というが、笑顔を浮かべても目が笑っていない時にはわかるものである。決して上から目線などにはならず、まっすぐその人を見つめる偽りの無いまなざしを、病める人は求めている。

■無財の七施 「心施」

「心施」は思いやりと気配り、人の気持ちを理解し受け入れること。地味な布施であるが大切なことだ。医療や介護の現場では時折、患者・利用者につらく当たったり暴力すら振るう事件が報道される。彼らは自分の言うことを聞かない、思い通りにならないことに憤慨して行為に及んでしまうことが多い。他者より自分を中心に考えるとこうなる。自分の心を他者に与える、施す心施を学ばなければならない。

■無財の七施 「言辞施」

「言辞施」は優しい言葉で人に接すること。下品で乱暴な言葉を使っているとその通りの人間になるし、言葉で人を殺すこともできる。一方で優しい言葉、温かい言葉に救われることもある。SNSなどの発達した現代では、不用意な言葉で人を傷つける誹謗中傷や、洪水のように溢れる情報、宣伝など、言葉のたれ流しといった状態である。現代ほど言葉の大切さが問われる時代はない。

■無財の七施 「身施」

「身施」は困っている人を助けること。ありきたりのように見えるが、「自分さえ良ければよい」の執着を捨てる基本かつ重要な行である。医療行為からボランティア活動なども含まれるだろう。また立ち居振る舞いを整え、美しい所作で生活することも身施といえる。人を見た目で判断してはならないが、やはりだらしない所作や服装は緊張感を奪い、下品な行動につながっていく。逆にきちんとした所作、服装は周囲の人にも凛とした空気を与えるものである。

■無財の七施 「房舎施」

「房舎施」は客を厚くもてなしたり、宿泊の場を提供することである。日本仏教が最も足りないところでもある。現代では見も知らぬ人を家に招き入れるのは困難であるし危険だが、キリスト教団体は貧困層への支援、炊き出しなどの社会活動に積極的である。それと比較すると寺院はこうした社会活動には消極的に思える。
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