【真説 鎌倉殿の13人】上総介広常をもっと知りたい!本名・兵力・誅殺の理由など真相に迫る【その2】 (4/6ページ)
頼朝が上総介を誅殺した真相
成立当時の鎌倉幕府は朝廷の下での地方政権だった
頼朝が創設した鎌倉幕府は朝廷の下に立つ地方政権だった。(写真:Wikipedia)
1192(建久3)年、頼朝が征夷大将軍に任命され鎌倉幕府という武家政権が成立します。しかし、幕府の支配は限定的で、あくまで朝廷権力を前提した地方政権でした。
鎌倉幕府が全国政権に発展するには、1221(承久3)年の承久の乱で朝廷権力を打倒するまで待たなければなりません。そして注目すべきは、承久の乱での勝者は、頼朝の源氏一族が滅亡した後の幕政指導者である北条政子・義時弟妹であり、坂東武士であったのです。
ここに頼朝が上総介を誅殺した真相が隠されています。要するに頼朝は平家に対抗して東国支配をするにあたり、なによりも朝廷(後白河法皇)の後ろ盾を必要としていたのです。
ところが頼朝軍を支えている最大勢力の上総介にはそのような考えは全くありません。朝廷に気を使う頼朝に対して、朝廷など無視して実力で東国経営を行えばよいという主張を行ったのでしょう。
こうした考えの違いから、頼朝と上総介の衝突が起きたと考えられます。自分の兵を持っていない頼朝は上総介に面と向かって強い命令を下せません。