こんな人生ツラすぎる…平清盛に捨てられ、娘も奪われた巫女・厳島内侍が土肥実平との結婚に至るまで (3/4ページ)

Japaaan

越中前司盛俊。歌川貞虎「平家武者競錦絵」より

「あの、妻があまりに不憫なので、女児を返してやって欲しいのですが……」

「ならん。これは我が子なのだから、そっちはそっちで子作りすればよいではないか」

「いや、そういう話では……」

なんてやりとりがあったかはともかく、成長した女児は御子姫君(みこひめぎみ。冷泉局)と呼ばれ、後白河法皇(ごしらかわほうおう)と政略結婚させられました。

ちなみに御子姫君は母ゆずりの美女だったものの、清盛の意図を承知の後白河法皇から愛されるはずもありません。やがて結婚から間もない治承5年(1181年)に18歳で亡くなってしまいますが、それはまた別の話し。

三度目の正直?土肥実平に迎えられ、余生を送る

さて、盛俊の妻となった厳島内侍は20年ほど連れ添いました。

彼女が生んだのかは定かならぬものの、家には盛俊の子である平盛綱(もりつな。盛俊の弟とする説も)や平盛嗣(もりつぐ)もおり、団欒に心慰められるひとときもあったことでしょう。

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